北朝鮮による日本人拉致、オウム真理教、そして福島第一原発事故を結ぶ点と線 2 蓮池透の東電での経歴。
2012/11/09(Fri) 09:31
北朝鮮による日本人拉致、オウム真理教、そして福島第一原発事故を結ぶ点と線 1 蓮池透が『北朝鮮にいる拉致被害者を力づくで奪還せよ』と主張し続けた意味。前回のエントリでは北朝鮮による日本人拉致問題で、核武装や武力攻撃を過激に主張していた蓮池透が斜陽であった原子力産業の核燃サイクル、MOX燃料推進に深く関わっていたことを指摘した。北朝鮮にいる拉致被害者を力づくで奪還せよ。北朝鮮はテロ国家であり拉致被害者奪還のためには武力攻撃も辞さない構えで取り組むべきだ。日本の核武装議論にも繋がる過激な主張を繰り返していた中心人物が、実は原子力ムラの役者だったのである。
なぜ、蓮池透は弟蓮池薫帰国後も拉致問題に関わり続けるのか。拉致被害者家族連絡会から除名された後、何かの心変わりがあったのだろうか、強硬路線から一転、対話を重視する柔軟な論調を主張するようになる。
余談であるが、2009年8月に「安全保障と防衛力に関する懇談会」が「防衛大綱の見直しに向けて報告書を提出している。「安全保障と防衛力に関する懇談会」は麻生総理の私的諮問機関であったが、座長をつとめていたのが東電会長の勝俣恒久であった。なぜ、日本の安全保障の諮問機関の座長が東電会長なのか。東電が日本一のプルトニウム保有企業だからである。
この視点に立つと、蓮池透がなぜ強硬路線をもって拉致問題解決を訴えてきたのか。拉致問題を軍事的課題にすり替えて武力攻撃や日本の弱腰外交や安全保障の問題に口を出してきたのか、おぼろげに見えてくるものがある。
福島第一原発事故が起きて、蓮池透は間もなく、自身が東電社員であったことをカミング・アウト、、『私が愛した東京電力』を著した。本の中では東電での経歴が詳しく記されている。以下は、『私が愛した東京電力』からの抜粋である。なおタイトル括弧内は記載ページ、注釈は註を付けて示した。ちなみに、MOX燃料推進の旗本である日本原燃で何をしていたのかについては、その内容には一切触れていなかった。
一度目の福島第一原発勤務-入社後二週間で(P35)
入社して二、三週間くらい全体研修があり、それが終わると福島第一原発へ行けという辞令をもらいました。一九七七年のことです。~中略~ 配属は保修課という東電特有の名称の課で、いまはないと思いますが、そこで計測制御装置のメインテナンスをすることになりました。~後略
計器類のメインテナンスが仕事(P40)
一回目の福島への赴任の間の保修課での仕事は、大きく分けて運転中と点検中の作業がありました。水位計などの計器は非常に繊細なものなので、基本的には運転中は触らないのですが、故障があったりすると、運転員から修理してくれと要請が来ます。それを直すのが保修課の仕事です。 ~後略
私たちは「計装グループ」と呼ばれていました。「計装」とは、計測制御装置の「計」と「装」で、略語です。大きく分けると、プロセス計装と核計装というものがあり、さきほどの水位や圧力、流量等はプロセス計装に属します。核計装というのは、原子炉のなかの中性子を測る計器等を意味します。そういうものをメインテナンスするのですが、校正だけでなく、修理したり交換したりします。原子力施設のなかには、ほかにいろいろな放射線計測器がありますが、そういうものを校正して、正しい値を示すような作業をしていました。
私たちが福島第一原発にいたころは、SCC(ストレス・コロージョン・クラック、応力腐食割れ)というトラブルがあり、原子炉近くの配管に相当その症状が出ていて、補修工事の最盛期でした。そういう工事が大々的に行われていたので、発電所とは名ばかりでほとんど発電しておらず、稼働率は大変低かったのです。それに、SCCの原因がわからず、対策をどう打ったらいいのかがわからない状況が続き、やっと対処方法が見つかり、新しい組成の金属に取り替えようという工事を盛んにやっていたのです。その後SCCは克服して、だんだん稼働率が上がっていったのです。発電しない原発は”金食い虫”ですから、稼働率を上げろというのが至上命令です。稼働していれば一日に何千億円か何百億円かを生み出すはずが、稼働しなければマイナスです。~中略~
換気空調系の制御設備について、私が点検工事を起案して、稟議書を書いて予算を付けて初めて点検したということもありました。みんなぼろぼろに錆びていて、「何だ、この錆は?」と、ボンッと蹴飛ばしたら、バラバラと落ちたことがありました。それまでは空調系の制御設備は点検をしていなかったのですが、GE社の説明書を見るとちゃんと手順が書いてあるわけです。やはり検査を受けないといけないのではないかと思って、急いで説明書を翻訳して、どうやって試験をするか考えました。
輸入された技術=原発 (P42)
いま、福島第一原発で事故が起きて、その問題点は何かが分析されていますが、原発の技術がアメリカから輸入されたものであって、日本で育った技術ではないという問題も指摘されています。原子炉の設計をしたのは、初期ではGE社で、後に日本の日立、東芝、三菱が担当するようになりますが、東電はそれをオペレーションしているにすぎず、今回の事故処理にも設計側の企業があまり入っていなかったことも、問題だといわれています。
一号機はすべてGE社にお任せでした。車や建売り住宅と同じで、自分たちは何もしないでただお金を出してプラントを買うのです。「ターンキー契約」といって、GE社が全部プラントをつくり、最後に「どうぞ」とキーをもらうわけです。日本側は運転員が「起動」といって、キーを差し込んで運転を開始します。引き渡しのときに運転マニュアルやメインテナンス・マニュアルを置いて行くのですが、全部英語でした。定期検査をやるにしても、まず手順書や要領書がない。そういうものを作る必要がありました。GE社の説明書を翻訳して日本の試験手順書にするのです。私もけっこうつくりました。旧通産省の立会い検査がよくありますから、立会い検査手順書もつくらないといけないので、日々それに追われていました。とにかく原子力は英語ばかりで、その上略語が多く、覚えないと仕事にならないところがあり、苦労しました。(註・フクイチのメインテナンスマニュアルを蓮池透自身が翻訳し作り上げたという部分は注目に値する。そもそもアーミテージに直談判するぐらいだから、英語はペラペラなようだ。)
本店勤務---安全審査、コスト削減の嵐 (P47)
その後七年間本店勤務になりました。一九八〇年に原子力開発研究所に異動になったのです。高速増殖炉の研究をやれといきなりいわれて、畑が違うので面食らってしまいました。福井県敦賀市に建設予定の高速増殖炉「もんじゅ」(旧動力炉・核燃料開発事業団)の安全審査がさかんに行われている時期でした。
そこで私は、高速増殖炉やプルサーマルの研究に携わることになりますが、ここで得た知見が、のちに「原発は自滅する。フェイドアウトするしかない」と私に確信させるベースになりました。そのことについては、次の章でお話することにします。
研究所といっても名ばかりで、自分の手で研究するわけではなく、すべて外注で、メーカや研究所に委託研究するのです。せいぜいで共同研究です。委託研究というのは一〇〇%費用を東電が出すのですが、共同研究は五〇%を東電が、五〇%をメーカも出すものです。私がしていたのは、早くいえば予算管理のようなものです。委託手続きを契約して、打ち合わせして報告書をもらい、それが契約書に合っているかどうかをチェックして、成果が出たかどうかを確認する、その繰り返しです。研究所にいる人は、研究員とか主任研究員といった名前は付いていますが、原子力技術の研究者というわけではないのです。実験室があって実験しているわけでも何でもない。研究所というのが恥ずかしい思いがしました。
そこに三年間いた後に、原子力計画化に異動になりました。本店内異動で、そこで今度は、旧通産省対応をやることになりました。安全審査です。研究所にいたころは、メーカから見ると私がお客さんで、だから偉そうにしていられたわけですが、相手がお役所になると偉そうにしていられないのです。「あれしろ、これしろ」といわれて、「はいはい」と言うしかなくて、大変でした。
安全審査とは、基本的には原発の設置の許可を得るための審査です。今あるプラントの変更もありましたが、中心は増設でした。このころは、原発がどんどんできた時期です。それと同時にコストダウンの嵐が吹き荒れていたときでした。これ以上安くできない、これ以上削ったら安全性に影響が出るくらいのギリギリのところまでやらされました。何十億削減とか、何パーセント削減といった目標が上からおりてくるのです。自分たちで考えるのですが、考えても埒が開かないときにはメーカにコストダウンのアイディア提供を頼みました。メーカも自分で売る物を安くするなどということはやりたくないので、まともにはやってくれないだろうと思いながらも、こちらは真剣でした。
原発の設計というのは、常に多重性を求められていて、安全評価をするときには「単一故障」を考えています。つまり、一台は故障をするという前提があるので、二台ないと機能は発揮できない設計思想になっているのです。私たちはコスト削減のために、そこに手をつけたのです。例えば安全系、非常用炉心冷却系とか、ポンプとか、機械類は必ず二つがセットになっています。ポンプやモータ、ファンといった「動的機器」と、配管などの「静的機器」がありますが、動的機器と静的機器の故障率を比較すると、もちろん動的機器の方が圧倒的に高い。ですから動的機器はどうしても二台必要です。しかし静的機器は故障率が低いから、二ついらないじゃないかということになり、そこを削ったのです。
原子炉格納容器のなかにスプレイするリング状の配管がありますが、それまでは一つのポンプから一個のリングに、もう一つのポンプから二個目のリングにというように、別々に水を送っていました。ところが静的機器は故障しないからリングは一個でいいだろうということになり、リングを一つ減らして、二台のポンプで一つのリングに水を送るようにし、コストダウンしたのです。そのリングが壊れたら全然水が来なくなりますが、「壊れない」という論理です。そういうものを減らす理屈をこねてコストダウンして本当にいいのか、という思いはありました。しかし、とにかく原子力部門はお金を使い過ぎだという批判が社内的にあり、原子力関連の人は問題視されていましたから、コスト削減を頑張らなければならない雰囲気がつくられていました。
原発のコストダウンの嵐が吹き荒れた後に、ABWR(改良型沸騰水型軽水炉)が入ってきました。この改良型はもともと従来の型よりも建設費は安いといわれていました。しかしだんだん高くなってきて、どんどん比べる相手を変えていきました。より高いものと比べるようになっていったのです。
その後は、ほとんど増設がないので、運転期間延長とか、あるいは定期検査の短縮とか、運用面で力を入れ、稼働率を高めることをしてきました。アメリカには「何年何月まで」という原発の「運転許可」制度があります。今回の福島第一原発の事故後、もう延長は認めないと決定した州もあります。しかし、日本の安全規制には「いつまで」という期限がありません。ですから極端な話、可能ならば一〇〇年運転してもいいのです。運転延長は”究極のコストダウン”と言うことができます。福島第一原発一号機の寿命は四〇年という暗黙の了解がありましたが、稼働率を高めるために一〇年間の延長を経産省に申し出て、承認を得たのです。そうしたら運転開始四〇年目の今年、ああいう事故が起きたのです。
二度目の福島第一原発勤務(p51)
トータルで三二年間東電に勤めたなかで、五年半ほど福島第一原発勤務で、残りの二六、七年が本店勤務、あるいは本店付の電力中央研究所、日本原燃など、どちらかというと東京勤務の方が多かったです。
一回目の福島勤務が三年半で、また七年たってから福島で勤務することになりました。一九八九年(註・蓮池透34歳)のことでした。東電内部では副長(一般の会社で係長)というのですが、現場の副長は管理職ではありませんでした(本店では副長以上は管理職)。二度目の福島にいる間はずっと副長でした。そのときはメインテナンスはやらずに、技術系の筆頭課である技術課という部署で、技術系部門をとりまとめる窓口をしていました。いわゆる何でも屋で、見学者対応、VIPが来る時の対応、定期検査の計画を各部から出してもらい旧通産省に説明に行くとか、定期検査報告書を各担当部から集約して旧通産省に報告に行くとか、そういうことをやっていました。
もう一つの大きな業務は、発電所に関する図画、取り扱い説明書、許認可関係の資料などの図書管理でした。発電所の図書館のような業務です。ライブラリの受付の女性にこういう資料を出してほしいとお願いすると、検索して出してくれるという、普通の図書館と同じシステムでした。発電所にはけっこうな量の図書があるのです。発電所の図面は改良工事が入ると変わります。変わったものをおおものと図面に反映しなければなりません。その改訂履歴をつけて、何年何月の第何回の定期検査で改良したと、図面をプロに書き換えてもらうとか、簡単なものは自分たちで行うとか、そういうことをやっていました。何かを新設したりすると、新設図面も入ってくるので、それをまたライブラリに登録・追加する作業もやっていました。こういう作業も関連子会社への委託でやっているのですが、図書が膨大なので、大変でした。~中略~ この赴任のときにあまりにも健康志向に走ったせいか、福島にいる最後の方で逆に体調を崩して、自律神経が少しおかしくなってしまいました。そういうなかでまた本店に戻りました。一九八九年のことでした。(註・つまり二度目の福島第一原発勤務は一年満たない期間であったようである。その理由として体調不良を挙げているが、本当の理由は別にあると睨んでいる)
本店では原子力計画課という、技術系の総括的な部署で仕事をしました。いわゆる技術系の筆頭課でした。
---------------------抜粋
入社して二、三週間くらい全体研修があり、それが終わると福島第一原発へ行けという辞令をもらいました。一九七七年のことです。~中略~ 配属は保修課という東電特有の名称の課で、いまはないと思いますが、そこで計測制御装置のメインテナンスをすることになりました。~後略
計器類のメインテナンスが仕事(P40)
一回目の福島への赴任の間の保修課での仕事は、大きく分けて運転中と点検中の作業がありました。水位計などの計器は非常に繊細なものなので、基本的には運転中は触らないのですが、故障があったりすると、運転員から修理してくれと要請が来ます。それを直すのが保修課の仕事です。 ~後略
私たちは「計装グループ」と呼ばれていました。「計装」とは、計測制御装置の「計」と「装」で、略語です。大きく分けると、プロセス計装と核計装というものがあり、さきほどの水位や圧力、流量等はプロセス計装に属します。核計装というのは、原子炉のなかの中性子を測る計器等を意味します。そういうものをメインテナンスするのですが、校正だけでなく、修理したり交換したりします。原子力施設のなかには、ほかにいろいろな放射線計測器がありますが、そういうものを校正して、正しい値を示すような作業をしていました。
私たちが福島第一原発にいたころは、SCC(ストレス・コロージョン・クラック、応力腐食割れ)というトラブルがあり、原子炉近くの配管に相当その症状が出ていて、補修工事の最盛期でした。そういう工事が大々的に行われていたので、発電所とは名ばかりでほとんど発電しておらず、稼働率は大変低かったのです。それに、SCCの原因がわからず、対策をどう打ったらいいのかがわからない状況が続き、やっと対処方法が見つかり、新しい組成の金属に取り替えようという工事を盛んにやっていたのです。その後SCCは克服して、だんだん稼働率が上がっていったのです。発電しない原発は”金食い虫”ですから、稼働率を上げろというのが至上命令です。稼働していれば一日に何千億円か何百億円かを生み出すはずが、稼働しなければマイナスです。~中略~
換気空調系の制御設備について、私が点検工事を起案して、稟議書を書いて予算を付けて初めて点検したということもありました。みんなぼろぼろに錆びていて、「何だ、この錆は?」と、ボンッと蹴飛ばしたら、バラバラと落ちたことがありました。それまでは空調系の制御設備は点検をしていなかったのですが、GE社の説明書を見るとちゃんと手順が書いてあるわけです。やはり検査を受けないといけないのではないかと思って、急いで説明書を翻訳して、どうやって試験をするか考えました。
輸入された技術=原発 (P42)
いま、福島第一原発で事故が起きて、その問題点は何かが分析されていますが、原発の技術がアメリカから輸入されたものであって、日本で育った技術ではないという問題も指摘されています。原子炉の設計をしたのは、初期ではGE社で、後に日本の日立、東芝、三菱が担当するようになりますが、東電はそれをオペレーションしているにすぎず、今回の事故処理にも設計側の企業があまり入っていなかったことも、問題だといわれています。
一号機はすべてGE社にお任せでした。車や建売り住宅と同じで、自分たちは何もしないでただお金を出してプラントを買うのです。「ターンキー契約」といって、GE社が全部プラントをつくり、最後に「どうぞ」とキーをもらうわけです。日本側は運転員が「起動」といって、キーを差し込んで運転を開始します。引き渡しのときに運転マニュアルやメインテナンス・マニュアルを置いて行くのですが、全部英語でした。定期検査をやるにしても、まず手順書や要領書がない。そういうものを作る必要がありました。GE社の説明書を翻訳して日本の試験手順書にするのです。私もけっこうつくりました。旧通産省の立会い検査がよくありますから、立会い検査手順書もつくらないといけないので、日々それに追われていました。とにかく原子力は英語ばかりで、その上略語が多く、覚えないと仕事にならないところがあり、苦労しました。(註・フクイチのメインテナンスマニュアルを蓮池透自身が翻訳し作り上げたという部分は注目に値する。そもそもアーミテージに直談判するぐらいだから、英語はペラペラなようだ。)
本店勤務---安全審査、コスト削減の嵐 (P47)
その後七年間本店勤務になりました。一九八〇年に原子力開発研究所に異動になったのです。高速増殖炉の研究をやれといきなりいわれて、畑が違うので面食らってしまいました。福井県敦賀市に建設予定の高速増殖炉「もんじゅ」(旧動力炉・核燃料開発事業団)の安全審査がさかんに行われている時期でした。
そこで私は、高速増殖炉やプルサーマルの研究に携わることになりますが、ここで得た知見が、のちに「原発は自滅する。フェイドアウトするしかない」と私に確信させるベースになりました。そのことについては、次の章でお話することにします。
研究所といっても名ばかりで、自分の手で研究するわけではなく、すべて外注で、メーカや研究所に委託研究するのです。せいぜいで共同研究です。委託研究というのは一〇〇%費用を東電が出すのですが、共同研究は五〇%を東電が、五〇%をメーカも出すものです。私がしていたのは、早くいえば予算管理のようなものです。委託手続きを契約して、打ち合わせして報告書をもらい、それが契約書に合っているかどうかをチェックして、成果が出たかどうかを確認する、その繰り返しです。研究所にいる人は、研究員とか主任研究員といった名前は付いていますが、原子力技術の研究者というわけではないのです。実験室があって実験しているわけでも何でもない。研究所というのが恥ずかしい思いがしました。
そこに三年間いた後に、原子力計画化に異動になりました。本店内異動で、そこで今度は、旧通産省対応をやることになりました。安全審査です。研究所にいたころは、メーカから見ると私がお客さんで、だから偉そうにしていられたわけですが、相手がお役所になると偉そうにしていられないのです。「あれしろ、これしろ」といわれて、「はいはい」と言うしかなくて、大変でした。
安全審査とは、基本的には原発の設置の許可を得るための審査です。今あるプラントの変更もありましたが、中心は増設でした。このころは、原発がどんどんできた時期です。それと同時にコストダウンの嵐が吹き荒れていたときでした。これ以上安くできない、これ以上削ったら安全性に影響が出るくらいのギリギリのところまでやらされました。何十億削減とか、何パーセント削減といった目標が上からおりてくるのです。自分たちで考えるのですが、考えても埒が開かないときにはメーカにコストダウンのアイディア提供を頼みました。メーカも自分で売る物を安くするなどということはやりたくないので、まともにはやってくれないだろうと思いながらも、こちらは真剣でした。
原発の設計というのは、常に多重性を求められていて、安全評価をするときには「単一故障」を考えています。つまり、一台は故障をするという前提があるので、二台ないと機能は発揮できない設計思想になっているのです。私たちはコスト削減のために、そこに手をつけたのです。例えば安全系、非常用炉心冷却系とか、ポンプとか、機械類は必ず二つがセットになっています。ポンプやモータ、ファンといった「動的機器」と、配管などの「静的機器」がありますが、動的機器と静的機器の故障率を比較すると、もちろん動的機器の方が圧倒的に高い。ですから動的機器はどうしても二台必要です。しかし静的機器は故障率が低いから、二ついらないじゃないかということになり、そこを削ったのです。
原子炉格納容器のなかにスプレイするリング状の配管がありますが、それまでは一つのポンプから一個のリングに、もう一つのポンプから二個目のリングにというように、別々に水を送っていました。ところが静的機器は故障しないからリングは一個でいいだろうということになり、リングを一つ減らして、二台のポンプで一つのリングに水を送るようにし、コストダウンしたのです。そのリングが壊れたら全然水が来なくなりますが、「壊れない」という論理です。そういうものを減らす理屈をこねてコストダウンして本当にいいのか、という思いはありました。しかし、とにかく原子力部門はお金を使い過ぎだという批判が社内的にあり、原子力関連の人は問題視されていましたから、コスト削減を頑張らなければならない雰囲気がつくられていました。
原発のコストダウンの嵐が吹き荒れた後に、ABWR(改良型沸騰水型軽水炉)が入ってきました。この改良型はもともと従来の型よりも建設費は安いといわれていました。しかしだんだん高くなってきて、どんどん比べる相手を変えていきました。より高いものと比べるようになっていったのです。
その後は、ほとんど増設がないので、運転期間延長とか、あるいは定期検査の短縮とか、運用面で力を入れ、稼働率を高めることをしてきました。アメリカには「何年何月まで」という原発の「運転許可」制度があります。今回の福島第一原発の事故後、もう延長は認めないと決定した州もあります。しかし、日本の安全規制には「いつまで」という期限がありません。ですから極端な話、可能ならば一〇〇年運転してもいいのです。運転延長は”究極のコストダウン”と言うことができます。福島第一原発一号機の寿命は四〇年という暗黙の了解がありましたが、稼働率を高めるために一〇年間の延長を経産省に申し出て、承認を得たのです。そうしたら運転開始四〇年目の今年、ああいう事故が起きたのです。
二度目の福島第一原発勤務(p51)
トータルで三二年間東電に勤めたなかで、五年半ほど福島第一原発勤務で、残りの二六、七年が本店勤務、あるいは本店付の電力中央研究所、日本原燃など、どちらかというと東京勤務の方が多かったです。
一回目の福島勤務が三年半で、また七年たってから福島で勤務することになりました。一九八九年(註・蓮池透34歳)のことでした。東電内部では副長(一般の会社で係長)というのですが、現場の副長は管理職ではありませんでした(本店では副長以上は管理職)。二度目の福島にいる間はずっと副長でした。そのときはメインテナンスはやらずに、技術系の筆頭課である技術課という部署で、技術系部門をとりまとめる窓口をしていました。いわゆる何でも屋で、見学者対応、VIPが来る時の対応、定期検査の計画を各部から出してもらい旧通産省に説明に行くとか、定期検査報告書を各担当部から集約して旧通産省に報告に行くとか、そういうことをやっていました。
もう一つの大きな業務は、発電所に関する図画、取り扱い説明書、許認可関係の資料などの図書管理でした。発電所の図書館のような業務です。ライブラリの受付の女性にこういう資料を出してほしいとお願いすると、検索して出してくれるという、普通の図書館と同じシステムでした。発電所にはけっこうな量の図書があるのです。発電所の図面は改良工事が入ると変わります。変わったものをおおものと図面に反映しなければなりません。その改訂履歴をつけて、何年何月の第何回の定期検査で改良したと、図面をプロに書き換えてもらうとか、簡単なものは自分たちで行うとか、そういうことをやっていました。何かを新設したりすると、新設図面も入ってくるので、それをまたライブラリに登録・追加する作業もやっていました。こういう作業も関連子会社への委託でやっているのですが、図書が膨大なので、大変でした。~中略~ この赴任のときにあまりにも健康志向に走ったせいか、福島にいる最後の方で逆に体調を崩して、自律神経が少しおかしくなってしまいました。そういうなかでまた本店に戻りました。一九八九年のことでした。(註・つまり二度目の福島第一原発勤務は一年満たない期間であったようである。その理由として体調不良を挙げているが、本当の理由は別にあると睨んでいる)
本店では原子力計画課という、技術系の総括的な部署で仕事をしました。いわゆる技術系の筆頭課でした。
---------------------抜粋
ターンキー契約の件や運転延長の件は当事者としての重みがありなかなか興味深いのだが、ここでは蓮池透の東電での経歴を見てみたい。蓮池透は1977年に東電入社して福島第一原発保修課の計装グループに配属、原発のメンテナンスを主に担当していたようだ。そこから原子力開発研究所に出向し、高速増殖炉やプルサーマルの研究に携わることになり、本店復帰後は原子力計画課に配属されることになる。ここで蓮池透は安全審査における旧通産省(現経済産業省)のカウンターパートになる。安全審査とは原発を増設するための設置許可を得るための審査である。原発はECCSなどの重要安全設備は二台ないと機能は発揮できないのだが、蓮池透はコスト削減のために、ここに手をつけたと明言していることは注目に値する。穿った見方をすれば、原発事故を起こしやすくするために「壊れない」という理屈をつけて無駄という決めつけのもと、設計から排除していったのである。ここに福島第一原発事故との接点を見出すことかできる。原発プラントの設計にある安全設備の配管は「絶対に壊れない」から、二本あるうちの一本は無駄であるから設計から外すといった意思決定に蓮池透は関わっていたのである。
さて、前回、今回と、北朝鮮による日本人拉致問題で弟を拉致された蓮池透について取り上げた。北朝鮮による日本人拉致、オウム真理教、そして福島第一原発事故をむすぶ点と線の本題に入る前に外堀を埋めた格好だ。参考までに頭の片隅にいれておいて欲しい。続く。
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