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原爆を落とした側が地震ですぐに壊れる原発爆弾装置を仕掛けていった。

2012/08/07(Tue) 19:45


今日は8月6日。広島に原爆が落とされた日だ。朝8時15分になれば、誰もが目を閉じ、手を合わせる。半世紀以上続く日本の恒例行事だ。


気付けば、日本列島をぐるりと一周取り囲むように原発が54基も建っていた。暖衣飽食のままの日々の暮らしの中で原発が生み出した電力が需要の三割を担っていた。しかし、日本人の誰一人として、望んではいなかったはずだ。広島と長崎に落とされた原爆は一瞬で数万の命を奪い街を壊滅させた。日本人の多くが毎年8月6日に黙祷するのも、あんな悲劇は二度と味わいたくないと核廃絶を願ってやまないからだ。

核のゴミ問題を棚に上げ、地熱発電や潮力発電などの再生可能エネルギーを徹底的に封印し、嘘と詭弁にまみれた原子力エネルギーに依存していった日本を誰が望んでいたというのか。

「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」

1968年、佐藤栄作総理が唱えた非核三原則である。国際社会に向けて核兵器の不保持を確約した裏側で原発ラッシュが始まっていた。戦後原子力の研究開発が禁じられた日本はアメリカで設計された原発プラントを導入した。そして、イギリスにプルトニウムを売り、フランスに再処理をゆだねていた。まんまと原爆を落とした側の手のひらの上で踊らされていたのである。




1971年11月、アラスカの孤島、アムチトカ島で米軍の地下核実験が行われた。W71核弾頭を使用したプロジェクト・カニキンである。


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W71核弾頭、残り29発はどこへ消えた?


アムチトカ島では三回の地下核実験が行われている。1965年、ロングショット(深度714メートル・80キロトン)、1969年、ミルロウ(深度1220メートル・1メガトン)、そしてプロジェクトカニキン(深度1860メートル・5メガトン)である。注目すべきは、実験を重ねるたびに深度を増し、核出力を増していることで、これらの実験が兵器としての実験ではなく、メガトン級の核爆発が及ぼす地震動の影響を調べるために行われたことを示している。ようは、地震兵器の実験である。





アムチトカ島は核実験用の島である。映像に映る建物は地震動による影響を調べるものでしかない。動物すら避難させているという。地震動はM7を記録しているというが、それにしても凄まじい衝撃である。実験用の建物の中には、原子炉プラントを想定したものもあっただろう。




アメリカが地下核実験により人工地震の実験を重ねていた時分、日本では原発が次々と建てられていった。日本初の商業用原子炉となる東海原発が運転を開始したのが1966年。敦賀原発1号機、美浜原発1号機が運転を開始したのは1970年のことである。翌年71年、福島第一原発1号機が運転を開始した。

敦賀1号機と福一1号機はBWRのMARK1型でアメリカの国営会社GEの設計による。そして、GEの設計したBWR MARK1型原子炉が地震や津波の影響を全く考慮していなかった欠陥プラントであったことは、先の福島第一原発事故が知らしめた。



事故原発は“欠陥品”? 設計担当ら35年ぶり仰天告白 - 政治・社会 - ZAKZAK
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110318/dms1103181534014-n1.htm

福島第1の原子炉はGEの設計図をもとに、東芝や日立製作所が関わって建設、運転されてきた。設計に携わった東芝の元技術者、小倉志郎氏(69)は16日、外国特派員協会の記者会見で驚きの証言をした。

(67年に)設計した当時は、津波は前提になかった。日本で事実上、初の原子炉設計だけに知識に乏しく、耐震設計基準についても判断できなかったと思う」

小倉氏は福島第1原発の1、2、3、5、6号機の冷却部分などを設計した。その小倉氏によれば、津波の対応はその後、日本独自の設計で織り込まれるようになった。しかし、推定で最大10メートルとされる今回の大津波より「想定規模ははるかに小さかった」。また、地震の規模についても「マグニチュード(M)8・0以上の地震は起きない、と社内で言われた」とし、M9・0の巨大地震は想定外であったことを明かした。

地震対策は「私の定年が近くなってやっと見直しをしたが、それでも大地震は想定しなかった。責任を感じる」と語っている。

米メディアの報道と設計者の証言をまとめると、もともと事故時の危険が高い米国発の原発が、津波や地震のリスクを十分に考慮せず建設、運転されてきたことになる。前出のブライデンボー氏は今回の事故について、「マーク1型格納容器が、他の原子炉ほど地震や津波の負担に耐えられないことから(事故が)生じた」と分析している。

--転載ここまで--


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福島第一原発6号機の模型。



原発プラントの配管は至るところで直角に折れ曲がっている。原子炉の蒸気や復水が配管を通るときの応力を分散させるための引き回し配管と呼ばれるものであるが、地震が全く考慮されていなかっことを如実に表している。こんなもの、地震に弱いに決まっているではないか。さらにいえば、津波を考慮していれば、非常用ディーゼル発電機やM/C(メタクラ。6.9kVを480Vに変圧する機器)P/C(パワーセンター。480Vを115Vに変圧する機器)を地上1階や地下階に置くことなど余程の水密性を確保していない限り自殺行為である。実際に、福島第一原発事故では津波の浸水で使い物にならなくなった。せめて原子炉建屋のオペレーションフロアぐらいの高さに設置していれば助かったはずだ。

地震も津波も考慮しない設計が福島第一原発事故の一因になったことは疑うべくもない。

日本は地震大国で世界共通語であるTSUNAMIの語源になった国だ。そんな日本に相応しい設計に改良できなかったのは、GEと結んだ契約がターンキー方式によるものだったからだ。GEは後に欠陥品であることが判明し次々と改良型が生まれていったBWRのMARK1型軽水炉型発電プラントの設計から建設まで手がけ、電力会社に鍵とマニュアルを渡した。鍵をひねって運転は開始され、311クライシスまで稼働してきたのが福島第一原発であった。

確かなことは、アメリカは日本の原発推進に深く関わり、地震に弱い設計の原発を導入させたことである。その裏で、地下核実験を繰り返し、人工的に地震を起こす実験を繰り返していったのである。そして今日、311クライシス、福島第一原発事故が起きた。原爆を日本に落とした側は、日本を隷従させるために、地震ですぐに壊れる原発爆弾装置を仕掛けていった。そう考えるのは、邪推だろうか。

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