酒鬼薔薇聖斗が残した三島由紀夫のしるし
2012/02/11(Sat) 12:06
9の系譜 今田勇子から酒鬼薔薇聖斗に渡されたバトン白ユリの系譜 シンボリックに読み解くあの猟奇事件
白ユリの系譜2 三橋祐輔と武藤亜澄
白ユリの系譜3 三橋歌織が見た『フィギュア』
酒鬼薔薇聖斗は犯行声明文に風車のようなしるしを残している。これは一体何のマークなのか。

その真意については説明されていない風に思う。
これは、象徴的な観点から言えば、とある宗教団体の徽章とそっくりである。



はたして、偶然だろうか。
当方は、これを偶然とは見ていない。酒鬼薔薇聖斗は、あえてとある宗教団体の徽章を似せたマークを残したのではないかと疑っているのである。
ある意味、しるしである。
◇ とある宗教団体と三島由紀夫の関係性
酒鬼薔薇聖斗ととある宗教団体とのつながりは一体何なのか。片や猟奇事件の犯人であり、片や二百万の信者を擁する巨大な宗教団体である。
実に、両者の関係性は三島由紀夫に見出される。
1970年11月25日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地(現防衛省)で三島由紀夫は自衛隊にクーデターを呼びかけた後、割腹自殺をした。三島事件である。
三島由紀夫が立ち上げた民兵組織、楯の会は市ヶ谷クーデター当時、とある宗教団体の青年部で半数が占められていたという。市ヶ谷クーデターに参加した四人の楯の会選抜メンバーのうち、古賀浩靖と小賀正義はとある宗教団体の信者であった。

中でも古賀浩靖はとある宗教団体の総裁の娘に婿入りし、荒地浩靖と名を変えて、今や北海道支部の最高責任者になっている。

三島事件に触発され創立されたのが新右翼一水会である。最高顧問の鈴木邦男と常任顧問の四宮正貴はとある宗教団体の青年支部長だったようである。もう一人の常任顧問、犬塚博英も信者である。

このように、三島由紀夫と、とある宗教団体は深く関わっていたことがわかる。
◇ 酒鬼薔薇聖斗と三島由紀夫の関係性
酒鬼薔薇聖斗はニュースで名前を間違われたことが犯行声明文を新聞社に送りつけた動機だとしている。なぜ、酒鬼薔薇聖斗は名前に固執したのか。
酒鬼薔薇聖斗は、『薔薇』にこだわったのではなかったか。

三島由紀夫は細江英公撮影による写真集、『薔薇刑』のモデルになっている。その中の一枚に薔薇を咥えた写真。酒鬼薔薇聖斗が名前に固執した理由が、『三島由紀夫が咥えた薔薇、もしくは写真集「薔薇刑」を想起させるため』にあったと考えると、妙に納得してしまう。
ここで一つ、薔薇刑と酒鬼薔薇聖斗事件にある奇妙な符号を紹介する。
酒鬼薔薇聖斗が起こした一連の事件の中で第二の事件と呼ばれる、1997年3月16日に発生した女児二人が襲われ一人が死に、一人が重症を負った事件がある。ここでは、ウィキペディアの記述を抜粋する。
神戸連続児童殺傷事件 - Wikipedia
---------------------抜粋
第二の事件
3月16日午後0時25分、神戸市須磨区竜が台の公園で、~略 振り返った女児を八角げんのう(金槌の一種)で殴りつけ逃走した。女児は病院に運ばれたが、3月27日に脳挫傷で死亡した。
---------------------抜粋
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第二の事件
3月16日午後0時25分、神戸市須磨区竜が台の公園で、~略 振り返った女児を八角げんのう(金槌の一種)で殴りつけ逃走した。女児は病院に運ばれたが、3月27日に脳挫傷で死亡した。
---------------------抜粋
被害者のうち死亡した女児は八角げんのうで殴りつけられ死亡している。三島由紀夫の写真集『薔薇刑』に三島由紀夫がゴムを喰み、ハンマーを掲げた写真がある。三島由紀夫で手に持つハンマーこそ、八角げんのうである。これは単なる偶然であろうか。

シンボリックな符号は、それが偶然ではないことを暗に示している。しるしというものは、そういうものである。
神戸須磨の事件が発覚した一年後、酒鬼薔薇聖斗事件の真相究明する団体『神戸事件の真相を究明する会』に手の込んだ怪文書が届けられている。ヨハネ黙示録13章の英文が赤文字で書かれていて、76個の数字とアルファベットが散りばめられているのだが、それらを取り出しシフトJISコードに当てはめると、「私は健在だ次は東伽で惨劇がおこるだろう」と読み取れるという。”私”が酒鬼薔薇聖斗を指すことは明白であり、同様の署名入りで、酒鬼薔薇聖斗が第二犯行声明文を神戸新聞社に送りつけた日と同日に、またも『神戸事件の真相を究明する会』に怪文書が、今度はロッカーキーも同封され送りつけられている。
http://www2.odn.ne.jp/~cac05270/cyousen.htm


http://www2.odn.ne.jp/~cac05270/2ndchousen.htm

両怪文書に共通するのが、”M.V.Project HONDA Sigekuni”という署名である。本多繁邦。三島由紀夫が最後に著した『豊饒の海』の主人公である。
酒鬼薔薇聖斗事件では、少年Aは動物虐待をたびたび行なっており、今回の事件はそれをエスカレートさせたものだという説明がされているが、三島由紀夫は著作、『午後の曳航』で少年たちが人を殺す前段階として猫を殺すシーンを描いている。
神戸事件・三島・14歳……この怪文書も再検討の要ありか?
http://postx.web.infoseek.co.jp/koube/gogonoeikou.html
一連の酒鬼薔薇聖斗事件は逮捕された少年Aによるものではない。酒鬼薔薇聖斗は健在である。そう仄めかす怪文書にある本多繁邦という署名。これらも偶然だといえるのだろうか。酒鬼薔薇聖斗は、意図して三島由紀夫を想起させるしるしを散りばめたのではないだろうか。
◇ 三島由紀夫は暗殺されたのではないか?
1970年11月25日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地総監室で益田兼利陸将を人質に籠城した三島由紀夫は、楯の会選抜メンバーである森田必勝とともに割腹自殺を図ったとされている。
三島由紀夫は本当に割腹自殺を図ったのだろうか。
誤解を恐れずに言えば、二人は暗殺されたのではなかったかと疑っているのである。
三島由紀夫割腹余話
http://www.geocities.jp/kyoketu/6105.html
---------------------抜粋
楯の会の制服を揃って着込んだ三島と若い部下たちは、車で市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に向った。三島は東部方面総監益田兼利陸将に午前十一時に面会を申し込んでいたので、一行は到着すると直ちに総監室に通された。二、三分雑談したあと、前もって打合わせておいた合図に従って、三島の若い部下たちは、なんの疑念も持っていなかった益田総監に飛び掛って縛りあげ、机や椅子などで部屋の入口を塞いだ。
そして、外で唖然としている幕僚らに対して、四つの要求を書いた紙を、ドアの隙間から滑り出させた。三島は、これらの要求が入れられなければ総監を殺し、自分も切腹すると脅迫していた。混乱した幕僚たちは武器も持たずに二回、室内の様子を見に押し入ろうとしたが、三島はまず彼らを威しつけ、刀を振り回して数人に怪我を負わせて、追い出した。暴漢となった作家の一行が本気であることを知った責任者は、捕われた総監の生命を気遣って、要求を受け入れた。彼は三島の演説を聞くために市ヶ谷駐屯地の全隊員を正午前に集合させること、午後一時十分までは何が起こっても妨害しないことに合意した。
---------------------抜粋
『三島は、これらの要求が入れられなければ総監を殺し、自分も切腹すると脅迫していた。』という部分は、言い換えれば、三島由紀夫の切腹は益田兼利陸将の死と引換であるということである。三島は大儀に従って自衛隊幕僚幹部を殺害し、その責任として切腹を持ち出している。つまり、三島由紀夫には切腹する条件があったわけだ。実際には、益田兼利陸将は怪我ひとつ負うことはなかった。三島由紀夫と森田必勝は何をもって割腹自殺したのだろうか。http://www.geocities.jp/kyoketu/6105.html
---------------------抜粋
楯の会の制服を揃って着込んだ三島と若い部下たちは、車で市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に向った。三島は東部方面総監益田兼利陸将に午前十一時に面会を申し込んでいたので、一行は到着すると直ちに総監室に通された。二、三分雑談したあと、前もって打合わせておいた合図に従って、三島の若い部下たちは、なんの疑念も持っていなかった益田総監に飛び掛って縛りあげ、机や椅子などで部屋の入口を塞いだ。
そして、外で唖然としている幕僚らに対して、四つの要求を書いた紙を、ドアの隙間から滑り出させた。三島は、これらの要求が入れられなければ総監を殺し、自分も切腹すると脅迫していた。混乱した幕僚たちは武器も持たずに二回、室内の様子を見に押し入ろうとしたが、三島はまず彼らを威しつけ、刀を振り回して数人に怪我を負わせて、追い出した。暴漢となった作家の一行が本気であることを知った責任者は、捕われた総監の生命を気遣って、要求を受け入れた。彼は三島の演説を聞くために市ヶ谷駐屯地の全隊員を正午前に集合させること、午後一時十分までは何が起こっても妨害しないことに合意した。
---------------------抜粋
三島由紀夫は眼下の自衛隊員にクーデターを呼びかける檄文を巻き、正午きっかりに演説を始めた。注目するべきは、三島が要求したのは13時10分までは何が起こっても妨害しないこと、だということだ70分間の時間的余裕がある。演説の予定は30分。40分余っている。三島由紀夫は自衛隊員にクーデターを呼びかけること以外に、何かをしようとしていたはずだ。
さて、三十分を予定していた演説であるが、報道ヘリの音や自衛隊員の野次に妨害され、三島由紀夫は7分で切り上げることになる。この直後に、三島由紀夫は総監室で割腹自殺を図り、古賀浩靖(荒地浩靖・生長の家の幹部)に介錯され首を刎ねられることになる。要求にあった13時10分まで、大分時間を残していた。
三島由紀夫は、残された時間で”何かを成し遂げようとしたところで暗殺された”のではなかったか。
例えば、それは、益田兼利陸将の殺害行為である。
演説を早々に切り上げ、三島由紀夫は人質である益田兼利陸将を殺害する為に総監室に引き上げてきた。その時すでに見張り役の楯の会選抜メンバーと益田兼利陸将との間に取引があったのではないか。三島由紀夫の割腹自殺を目撃したのは、楯の会選抜メンバー四人(森田必勝を抜けば三人)と益田兼利陸将だけである。口裏を合わせれば、割腹自殺として処理されるだろう。
---------------------抜粋
三島の短刀による傷はへソの下四㌢ぐらいで、左から右へ十三㌢も真一文字に切っていた。深さは約五㌢。腸が傷口から外へ飛び出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三か所、右肩に一か所あった。
森田は腹に十㌢の浅い傷があったが、出血はほとんどなかった。首は一刀のもとに切られていた。略~ 検視に立会った東京大学医学部講師・内藤道興氏は、「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字、という状態で、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べるとその意気込みのすさまじさがにじみでている」と話した。略~ 死因は頚部割創による離断。左右の頚動脈、静脈がきれいに切れており、切断の凶器は鋭利な刃器による、死後二十四時間。頚部は三回は切りかけており、七㌢、六㌢、四㌢、三㌢の切り口がある。右肩に、刀がはずれたと見られる十一・五㌢の切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はへソを中心に右へ五・五㌢、左へ八・五㌢の切創、深さ四㌢、左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長百六十三㌢、四十五歳だが三十歳代の発達した若々しい筋肉。
森田必勝(船生助教授執刀)については、死因は頚部割創による切断離断、第三頚椎と第四頚椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部のキズは左から右に水平、ヘソの左七㌢に深さ四㌢のキズ、そこから右へ五・四㌢の浅い切創、ヘソの右五㌢に切創。右肩に〇・五㌢の小さなキズ。身長百六十七㌢。若いきれいな体をしていた。
---------------------抜粋
三島の短刀による傷はへソの下四㌢ぐらいで、左から右へ十三㌢も真一文字に切っていた。深さは約五㌢。腸が傷口から外へ飛び出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三か所、右肩に一か所あった。
森田は腹に十㌢の浅い傷があったが、出血はほとんどなかった。首は一刀のもとに切られていた。略~ 検視に立会った東京大学医学部講師・内藤道興氏は、「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字、という状態で、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べるとその意気込みのすさまじさがにじみでている」と話した。略~ 死因は頚部割創による離断。左右の頚動脈、静脈がきれいに切れており、切断の凶器は鋭利な刃器による、死後二十四時間。頚部は三回は切りかけており、七㌢、六㌢、四㌢、三㌢の切り口がある。右肩に、刀がはずれたと見られる十一・五㌢の切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はへソを中心に右へ五・五㌢、左へ八・五㌢の切創、深さ四㌢、左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長百六十三㌢、四十五歳だが三十歳代の発達した若々しい筋肉。
森田必勝(船生助教授執刀)については、死因は頚部割創による切断離断、第三頚椎と第四頚椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部のキズは左から右に水平、ヘソの左七㌢に深さ四㌢のキズ、そこから右へ五・四㌢の浅い切創、ヘソの右五㌢に切創。右肩に〇・五㌢の小さなキズ。身長百六十七㌢。若いきれいな体をしていた。
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三島由紀夫の検視によれば、切腹の傷はへその下4センチの位置で真一文字に13センチ、深さ5センチだったという。切腹の傷は腸がはみ出るほど深く割かれていたという。検死医は「意気込みの凄まじさ」という精神論で説明しているが、はたして自らを腸がはみ出るほどの深さに腹を切り裂くことが可能なのだろうか。さらに言えば、切腹は介錯を前提に考えれば、腹を切る行為はあくまでポーズであって、傷を付ける程度で良いのである。さらに、『右肩に、刀がはずれたと見られる十一・五㌢の切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ』という部分は、どうも後ろから襲撃された事を想定させるものである。
森田必勝の検視結果も興味深い。頸部は一刀両断されているものの、腹部には複数の傷があった。介錯人がいるのに自分で何度も腹に刃を突き立てたのだろうか。
酒鬼薔薇聖斗事件では、被害者の頭部が友が丘中学校の校門に置かれている。両目は繰り抜かれ、口は耳元まで割かれ、まぶたにバツ印。ハロウィンのかぼちゃのごとく、異常な細工が施された頭部は三島由紀夫と同じように公衆にさらされた。


三島由紀夫は組織に見せしめとして暗殺されたのではないか。後に語り継がれることになる壮絶な割腹は、偽装工作されたものではなかったか。三島由紀夫の暗殺を割腹自殺に偽装するのは簡単である。そう考えると、酒鬼薔薇聖斗が頭部を校門に晒した理由も見えてくる。日本国民に見せしめられた三島由紀夫の生首を想起させ、脅威な存在や思想の芽を摘むためである。
三島由紀夫の檄文コピー: 多摩湖畔日誌
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-e950.html

檄 楯の會隊長 三島由紀夫
われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかった男の涙を知つた。ここで流した我々の汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同士として共に富士の原野を馳駆した。
このことには一点の疑ひもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのをみた。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。
われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを見た。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名前を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質な欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は國軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。
われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることはなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。
楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあった。憲法改正が、もはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史.伝統.文化を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こったか。総理訪米前の大詰といふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不要になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左翼勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実を取る!政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
銘記せよ!実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとって悲劇の日であつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、その日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残ってゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、なんたる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上がるのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかってゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリアのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本から来ないのだ。シヴィリアン.コントロールは民主的軍隊の本姿である、といふ。
しかし英米のシヴィリアン.コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。この上、政治家のうれしがらせにのり、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当たつては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五.五.三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
於 東京市ヶ谷台自衛隊総監部 昭和四十五年十一月二十五日自刃
---------------------抜粋
本来ならば、自衛隊こそ、日本の安全保障を担うべきである。だが、現憲法下では自衛隊はけして国軍には成り得ない。『陸海空軍其ノ他ノ戦力ノ保持及国ノ交戦権ハ之ヲ認メズ。』自衛隊は例え第三国に軍事侵略されたとして、アメリカの傭兵としか成り得ない。だから三島由紀夫は憲法改正を主張した。自衛隊こそ、自らを否定する憲法を改正させるよう行動するべきだ。だから、三島由紀夫は自衛隊にクーデターを呼びかけたのである。
自国の安全保障をなぜ他国に委ねているのか。現憲法下では、有事の際でも自衛隊は災害援助支援部隊か、在日米軍の盾にしかなりえない。そんな惨めな存在でいいのか。三島由紀夫のメッセージは至ってシンプルに聞こえる。
三島由紀夫を脅威な存在だと考えるのは、他でもない、在日米軍である。1970年といえば、まだ沖縄は返還されていない。三島事件のひと月後にコザ騒動が発生しているのが興味深い。市ヶ谷クーデターに立ち会った自衛隊員の誰一人として三島由紀夫に賛同しなかったが、沖縄返還前のコザ騒動というのは、三島由紀夫の遺志が、占領下にあった沖縄に届いたのかもしれない。
以下の動画は一水会と楯の会の罵り合いが記録されている。4分~
つまり、そういうことなのである。



三島由紀夫の檄文コピー: 多摩湖畔日誌
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-e950.html
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