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カッパドキア雑考・剣山で発見されたミイラ100体の謎

2011/04/14(Thu) 00:10

カッパドキアと四国徳島・剣山を結びつけるのは、やはり、”超秘密政策による歴史改竄と隠蔽工作”の痕跡である。両者は人工建造物(大杉博氏は剣山が人工建造物である確証を得たと明言している)でありながら数百年の間、その存在すら気付かせなかったのである。

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剣山山頂


■ 四国徳島の剣山で発掘されたミイラの記事が消されている??

1950年8月26日、山本英輔という海軍大将が徳島・剣山でミイラ100体を発見したという記事が徳島日報で配信されたのだが、徳島日報で当記事が配信された新聞ごと消されているという。これは非常に興味深い。剣山に関するやりとりは動画の四分あたりから。

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http://www.youtube.com/watch?v=yyEGBHxAQHU


飛鳥昭雄氏がいう剣山で発掘されたミイラ100体について詳述したブログを見つけたので引かせていただく。これが事実だとすれば、唸らずにはいられない。やもすれば、剣山の地下に、カッパドキアに匹敵する地下都市が存在するかもしれないことを示唆しているようにも思えるからだ。


7、アークは剣山に眠る!? その1
http://www.fushigido.net/ancient/item.php?id=12

---------------------------------[抜粋]

昭和11年、剣山の険しい山道を、黙々と登る男の姿があった。男の名は、高根正教(たかね・まさのり)。神奈川県の尋常高等学校の校長を務めた名士で、聖書研究家だった。

続く男は資産家の内田文吉と、角田清彦の2人。高根をリーダーとした3人の男たちの目的は、剣山山頂部の発掘。表向きには「剣山鉱区地質調査」だったが、本当の目的はまったく別のところにあった。「ソロモンの財宝」の発掘だ。

高根さんは神道のいわゆる「言霊」(ことだま:言葉には魂が宿っているという考え)に精通していて、言霊を使って旧約聖書を解き、剣山にアークが眠るという結論に辿り着いたらしい。

高根さんが注目したのは、山頂付近にある「鶴岩」と「亀岩」だった。高根さんは同士とともに、亀岩の下を数年間かけて約150mも掘り進んだ。

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剣山・鶴岩亀岩

結論からいうと、アークこそ出なかったものの、131m地点で巨大な球体型をした「太陽岩」を発見。さらにその4m奥でも同じ球体の岩を発見。さらには、大理石でできたアーチ門や高さ15mほどのピラミッド型の空間までも発見した!

これが今の世だったら世界的大ニュースになるところだけど、いまから70年以上前の話。この情報は瞬く間に「政府」の耳に届き、高根さんの発掘はココでストップをかけられる。発掘品は一部を除き、すべて没収されてしまう...。

しかし、高根正教の冒険のウワサは、日本中の男たちの心に火をつけることになる。戦後、その
価値8000億円ともいわれるソロモンの財宝を求めて、多くの冒険家たちが剣山を目指した!

その中でも、高根正教以上の発見をした男がいた。元海軍大将・山本英輔である。山本は、高根たちの「穴」を特定し、さらに奥へと掘り進んだ。そして掘り進むこと16日目、とんでもナイモノを発見することになる。なんと、レンガ作りの回廊の奥に、100体以上のミイラが眠っていたのだ!

結局、山本も資金繰りやいろいろな問題に邪魔されてアークまでは行き着かなかったが、高根、山本他、たくさんの男たちによって、剣山が「人工」の山であり、山頂付近には、なにか「遺跡」のような「地下施設」があることが判明したのだ。

---------------------------------[抜粋]

8、アークは剣山に眠る!? その2
http://www.fushigido.net/ancient/item.php?id=13

---------------------------------[抜粋]

最近は、剣山自体が国の国定公園に指定されて、発掘は全面的に禁止されている。自衛隊が調べているとか、夜な夜な米軍がウロついているとか、色んなウワサがあるけど、どれも定かではない。

2003年にインタビューさせてもらった、大杉博(おおすぎ・ひろし)準教授も、アークは確実に剣山にあると断定している。しかし、大杉氏は「高根さんは、結構、見当違いなところを掘っている。アークがあるのはあそこではない。行場にある」と言う。

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剣山行場マップ

オレら東京グーニーズは、大杉氏にインタビューで聞いた位置と、現存する資料を照らし合わせ、ある位置を特定した。それは、剣山山頂から登山ルートとはちょっと違う位置に降りたあたり。自然道の修行僧が修行していたという、いわゆる「行場」だ。この「行場」のどこかから、「地下施設」に入れる「穴」を探すことにした。怪しい場所は、大きく分けて3つ。

1つは、「古劔神社」という行場にある小さな社の上のガケを登ったところにある「穴」。

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古劔神社・古剣神社・こつるぎじんじゃ

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プレハブ作りのチープな社だが。

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横からみた古劔神社。うっ、洞が見える…

ココは、弘法大師・空海が作ったと言われる「地下施設」への抜け穴だと大杉氏は言う。しかし、入ってスグのところで、落盤で埋まってしまっている。岩盤のスキマからは、かすかに冷たい風が吹き抜けていて、奥に空洞があるのが分かる。でもココを掘るのはめっちゃキケンだ。ただでさえやわらかい石灰岩でできた層なのに、落盤でガタガタなところを掘ったりしたら、ペシャンコになるのは目に見えてる。

もし、ココを掘るんだったら、NASAとかよくわかんないけど、そーとースゴい機材を使わないとムリだろう、きっと。予算もナニもない、スコップくらいしか使えないオレらにとっては、一番非現実的。ココを掘って「穴」に入るのは、オレらにはムリ。

2つ目は、「鶴の舞」と呼ばれる巨石からナナメ上に伸びているケモノ道をあがったところ。

鶴の舞
剣山・鶴の舞

ココは、いわゆる「聖域」と呼ばれていたところらしいが、いまはもう忘れ去られていて登山ルート案内にも載ってない。ホトンド90度の崖っぷちを登ると、そこには巨石でつくられた古代の
「神殿」が残っている。きっと、なにかの「儀式」で使われていた「祭壇」かなんかだろうか。

「聖域」と呼ばれるだけあって、ココには尋常じゃない神がかった空気が漂っている。オレらの見解はつまり、こうだ。「古劔神社の穴」が塞がって入れないんだったら、そのちょうど上に位置する聖域に「縦穴」を掘れば、「古劔神社の穴」の途中に縦から入れるんじゃないか?というワケ。バカバカしく聞こえるカモしれないけど、実際、大杉さんも掘ったことがあるらしい。6m近く掘ったところでバレちゃって埋めさせられてしまったらしいけど、途中、勾玉のような石や、湾曲した、どうみても人工的な石が出て来たらしい。

2003年、剣山調査から帰って来たばかりの頃は、もう一度、今度はスコップを持って聖域を掘るぞ!と息巻いていたんだけど、掘るとなったら、それなりの日数が必要だろう。1週間、イヤ、ホンキで掘るんだったら1ヶ月はキャンプを張って掘り続けなくちゃ。

パクられたらどーする? もうイイ年だろ…とか、1ヶ月も仕事休めないッスよ?っていう人がホトンドで(当たり前だけど)、結局実現しないまま、今に至る。

---------------------------------[抜粋]


剣山の地下がカッパドキアの地下都市のようだったら、と妄想してしまう。しかし、興味深いですな。


※おまけ

宇野正美講演会2000-0119

内容が面白すぎて必見。

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Tag:カッパドキア 地下都市 剣山 鶴亀 

Category:カッパドキアと剣山雑考

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カッパドキア雑考・月と殿下とウランガラス

2011/04/13(Wed) 12:43

2011/04/21加筆修正

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帯重なるごとく地下に洞が築かれ、通気孔が地上から地下水脈に到達するまで穿てられ、横穴で地下都市間が連結され、地上に出る必要のない完全な都市機能を備えた地下ネットワーク。トルコ・カッパドキアの奇岩地帯の地下に築かれた巨大な地下都市は推定100万人収容可能と言われている。

カッパドキアの地下都市建造は、かつては西暦三世紀ごろに移り住んだ、当時ローマ帝国やイスラム教徒から迫害されたキリスト教徒の遺構だとするのが通説であった。されど、キリスト教徒の遺物は全て地上部の洞窟寺院や修道院から出土されているものだ。地下都市から発掘されたわけではない。地下都市にはキリスト教徒の痕跡はおろか、居住した痕跡すら見あたらないという。さらに、西暦四世紀に入りローマ帝国はローマ勅令でキリスト教に改宗したので迫害される理由がない。紀元前五世紀に当時の歴史家が”アナトリア地方の地下都市に11万人住んでいた”という文献を遺している。キリスト教徒が建造したという通説では説明付かないことも多く見受けられたが、他に説明つかなかったという。

キリスト教徒が定住したとき、すでに地下都市は存在したと考えられているようで、今は地下都市建造はヒッタイト人によるものだとするのが主流だという。旧約聖書に出てくるヘト人はヒッティ、ヒッタイト人。もう一つ加えれば秦(ハタ)。製鉄技術を独占、門外不出としたヒッタイト人であるならば大掛かりな地下都市建造も可能かもしれない。ただ、紀元前1800年から前1200年までの話だ。この頃、日本では土器、貝塚、高床式の縄文時代にあたる。地下に住もうなんて発想すら湧かないのではないか。

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戦車に乗るヒッタイト人

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ヒッタイト象形文字

地元では地下都市の存在に触れる言い伝えは残されていたという。いわゆる口頭伝承である。カッパドキアの地下都市の調査は1965年からだという。少なくとも数百年間、巨大な遺構の存在は気づかれることすら無かったのである。”超秘密政策による歴史改竄と隠蔽工作”ではないか。

では、なぜヒッタイト人はトルコ・アナトリア高原の地下に巨大な地下都市建造を思いついたのか。なぜ”超秘密政策による歴史改竄と隠蔽工作”で封印したのか。


■ 三笠宮殿下とトルコを結ぶ線

二元論というのがある。表があり裏がある、善があるから悪がある、光があるから影がある、神がいて悪魔がいる。民主党と共和党。白と黒。剣とペン。文武両道。2つの対照的な物事は表裏一体だという考えをいう。日本とトルコの間にある二元論といえば、国旗に注目したい。日本は日の丸で光・陽を示し、トルコは月と星で夜・闇を示している。陽があれば陰もある。見事な二元論である。

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さらにトルコはTurkeyと書き、そのまま読めばツルキ=鶴亀=剣(つるぎ)になる。語原は英語のTurkey(七面鳥)だというが、そもそもトルコには七面鳥は生息していなかった。トルコ生息のホロホロ鳥を七面鳥と勘違いしTurkeyと名付けたというのだが、国名の語原が勘違いというのは些か腑に落ちない点でもある。Turkeyは月とも読めるのだが、はたして偶然だろうか。

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日本・トルコ協会名誉総裁の三笠宮崇仁殿下。中近東文化センターの生みの親。

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現日本・トルコ協会総裁の仁親王殿下。

皇室、三笠宮殿下は日ユ同祖論の研究者として有名だが、日本・トルコ協会名誉総裁でもある。さらに、トルコのヒッタイト帝国時代の遺跡と言われるカマン・カレホユック遺跡を日本の中近東文化センターが1985年以来発掘作業を続けているのだが、中近東文化センターというのは三笠宮殿下の発意で発足した研究機関である。古代オリエント学と称して日本とユダヤの研究を続けておられる三笠宮殿下はトルコに何を見たのだろうか。

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ヒッタイト帝国時代の遺跡・カマン・カレホユック遺跡。俯瞰すれば亀のようだ。名前もKaman-Kalehoyuk…カマンが亀と読めなくもない。不思議な符合だ。ようし、鶴嘴(ツルハシ)担いで・・・


■ 剣山の麓にある美馬市


カッパドキア(Cappadocia)は「美しい馬の地」を意味するペルシア語だという(Katpatukに由来、トルコ語:Kapadokya、ギリシア語:Καππαδοκ?α)。カッパドキアが美しい馬の台という意味ならば、徳島・剣山の麓にある美馬市は無関係といえるだろうか。美馬市にはアインシュタインが戦争の犠牲になった三宅医師に捧げられた友情碑がある。三宅との友情はアインシュタインが船旅の最中急病を患い、偶然居合わせたことがきっかけだと説明するが、はたして、理由はそれだけだろうか。徳島県美馬市の郵便番号は『777××××』。七七七は喜と読み七七歳で迎える喜寿の語原である。

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剣山の麓にある美馬市。伊射奈美神社やアラタエ用の大麻を管理する三木家が有名。

美馬市 アインシュタイン

美馬市 郵便番号


■ 照明はウラン精製品??

ヒッタイト人にせよキリスト教徒にせよ、地下都市を建造開始した古代では、どうやって明かりを得ていたのだろうか。カッパドキアが完全な都市機構を備えた遺構だとして、その建造を手がけたのが電気もガスも水道もない時代である。松明、提灯、ロウソク等を照明にするとしても、燃料や酸欠の問題もある。火を燃やし明かりを得る発想は、インフラが整っていない古代の地下都市にいたっては実用的ではない。では何で明かりを得ていたのか。光る石でもあれば良いのに、と思ったのだが、

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ウランガラス。紫外線を当てれば発光する、微量のウランを含んだガラス製製品である。

ウランガラスというのがあった。へえ、ウランって光るのか。当方はウィキペディアにあるような黒褐色の粘土だと思っていたのだが、”紫外線を当てれば光る”リン銅ウラン鉱などを混ぜ合わせればウランガラスの様に紫外線を当てれば発光する不思議なガラスをも作りうるのだ。

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ウラン ウィキペディアより

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リン銅ウラン石。ペンダントにすればダビデの星になりそうだが…

ウランガラスはウランの性格を知り得つつガラス精製の技術があれば作成可能であろう。ヒッタイト帝国時代(紀元前1400~前1200年)の遺跡からガラス容器が発掘されていることからも、ヒッタイト人がガラス精製の技術を得ていたと認識されている。



トルコ・ヒッタイト時代の精巧ガラス、トルコで出土
http://escapee.jp/wp/archives/5924
---------------------------------[抜粋]

20101225-432009-1-N.jpg

 トルコ・アナトリア高原のヒッタイト帝国時代(紀元前1400~1200年頃)のビュクリュカレ遺跡を発掘調査している中近東文化センター(東京都三鷹市)は、当時ガラス製作の先端地域だったメソポタミアに匹敵する技術で作られたガラス容器を発見した。
 容器は、紀元前14世紀の宮殿とみられる建物の床の上で見つかった。直径約4センチの細長い首と、同約10センチの洋梨形の胴部を持つつぼで、高さ約15センチ(全長は推定約25センチ)。不透明な白地に、白や濃紺の細いガラスひもを、ねじったり、波形にしたりして張り付けた、精巧な装飾が施されている。
 ガラス容器の生産は、紀元前16世紀にメソポタミアで始まったとされる。ヒッタイト時代のアナトリアでは、ガラスの小片が数点見つかっているだけだった。
---------------------------------[抜粋]

■ 早川メモが示唆する燐光するウラン石の存在

りん銅ウラン鉱は日本でも産出されている。岡山県と鳥取県にまたがる人形峠で産出される人形石の二次生成物がリンカイウラン石と言われている。

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人形石

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燐灰ウラン石

日本でも珍しいウラン鉱床である人形峠はオウム真理教の幹部、早川紀代秀が残したメモ、いわゆる早川メモの中にも登場する。岩上安身氏の早川メモに触れた記事では〈人形とうげ→調べる〉と書かれている。

2011-04-13 11-00-01
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/aum2.htm

さらに、早川メモの中には

<*塩湖のそばがある。 *小さな塩湖の中にある。 →ドライエリアにある。 *2~3mの軟い石の中(軟い土地)に入っている *燃灰ウラン鉱が見つかったらその下に硬いウランが出る。>
という記述があるというのだが、言外に、リン銅ウラン石、燐灰ウラン石とは別種のウラン石の存在を示唆しているようにもみえる。つまり、それこそ紫外線を当てなくとも燐光する光る石なのではないかと想像してしまう。リン重土ウランというのがあるらしいが、それのことだろうか。


さらに、これには驚いたのだが、人形峠はウラン鉱床発見前は「打札(うちふだ)」と呼ばれていたという。「打札」とは正しく、”超秘密政策による隠蔽工作”の痕跡ではないか。ウラン鉱床の露頭が発見されたのが1955年だとされている。それ以前、恐らく古代日本でウランを知り尽くした何者かが、人形峠に人が立ち入らぬよう魔除けの札を打ったのだ。カッパドキア・四国徳島剣山に相通じるものを感じるのは当方だけだろうか。


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Category:カッパドキアと剣山雑考

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奇岩地帯の地下に広がるオーパーツ 謎の地下都市、カッパドキア2

2011/04/06(Wed) 06:42

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神秘の奇岩地帯、カッパドキア

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トルコ・アナトリア高原に位置する謎の奇岩地帯、カッパドキアに広大な地下都市がある。標高1000メートル級の不毛な荒地の地下に、200から400の地下都市が穿てられており、それらの地下都市間は横穴で連結しているという。収容人数は推定10万人以上とも言われている。前回のブログエントリーで貼りつけた動画では、東京都より広く100万人収容可能とナレーターが言っていたように、巨大な地下都市ネットワークが、ヨーロッパと西アジアにまたがるトルコ(Turkey)の地下にあるのである。

存在してはいけない遺物。まさしくオーパーツではないか。さらに地下深くに地下都市は広がっている可能性すらあるというのに、まだ全容把握はできていないという。この後ろ向きさこそ、そこに何かが隠されているからだろう。直感的に思えた。

311東日本大震災を経て、今後の展開を予想する上で、カッパドキアの謎解きに迫ることは重要だと考えているようになった。ただ、素人には無謀であった。あまりにも奥が深すぎた。

カッパドキアの地下に散在する地下都市とは一体何か。まずはそこから初めてみたい。


■ 恐ろしいほど広大で完璧な機能を備えた地下都市・カッパドキア

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カイマクル・デリンクユ・オズコナークの地下都市はカッパドキアを代表する場所だ。


カッパドキアの地下都市はトルコ・アナトリア高原に位置する謎の奇岩地帯にある。東京都より広い敷地の地下に、200から400の地下都市があり、地下都市間が横穴で連結しているという。この100万人規模の収容人数をほこる巨大な地下都市ネットワークの存在が認識されたのは1900年代初頭といい、発掘が開始されたのは1965年。地下都市の存在は口頭伝承されていたというが、近代に到るまで、その存在が数百年もの間、この壮大な地下世界が秘匿されてきたことに驚くばかりだ。

---------------------------------[抜粋]
 トルコ政府の探索隊は、用心深く地下へ降下していったが、いくら進んでも先があるのに驚かされた。地下にあったのは自然の大洞窟ではなく、明らかに人間によって造られたもので、それも八層から十六層にも折り重なった、とんでもない規模だったのである。そこには、まるで、映画『インディ・ジョーンズ』に出てくるような世界が広がっていたのだった。
 その後の調査の結果、地底都市は農夫が発見したカイマクルだけではなく、ギョズテジン、デリンクユなど、カッパドキア南部にいくつも発見された。さらに近年、マヴルージャンやオズコテークなどでも続々、地底都市が発見された。まだまだ未発見の地下都市はあると見られている。
 地底十六層というと、約一五〇メートルになる。荒涼たる大地の底に住み着いていた人々は、いったい何の目的でこのような地底都市を築かなければならなかったのだろうか。
[以下省略]
---------------------------------[抜粋]
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デリンクユ地下都市のエリアマップ。
---------------------------------[抜粋]
(地下都市は)最大の物ではなんと地下8階建て(一説では地下20階)の構造をもっており、当時ここに住んでいた人口は推定で1万5千人をくだらないと言う。
 この調査の他には、同じ1965年に行われた調査では、推定収容人口6000人のデリンクユ地下都市、あまりにも深すぎて推定人口の特定も無理であったギョズテジン地下都市があった。
 カイマクル地下都市とデリンクユ地下都市は、互いに9キロ以上に渡り、トンネルで繋がっている(図B)、この長さは、日本の1962年まで日本最長であった清水トンネル(9072メートル)に匹敵する。
 その後、さらに収容人口が六万人と推定されるオズコナーク地下都市が発見され、マヴルージャンと言うところにも地下都市が存在する事が、明らかになった。
 この調査でわかっているだけでも合計8万5千人の人がここで暮らしていた事になる、さらにカッパドキアには現地住民の話では無数の地下都市がまだまだ他にも存在し、地下都市は約450個あるとみられ、数十万人の人が暮らしていたという事になる。しかし、地下なだけに調査が難しく調査がなかなか進んでいないのが現状らしい。
---------------------------------[抜粋]

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デリンクユ地下都市の平面図

カッパドキアの地下に穿てられた洞窟はイェラルトウ・シェヒルと呼ばれ、1965年の調査以降次々と発見されていったのだが、地下に張り巡らされた巨大なアリの巣は、10万人以上収容可能と推定される巨大な地下都市ネットワーク、そのスケールもさることながら、さらに驚愕すべきは、カッパドキアの地下都市は、地下都市として機能しうる完璧な設備が備えられていたということだ。つまり、地上にでなくても生活できるのである。

---------------------------------[抜粋]
 通気孔は、地下の最下層より穿たれており、優に百メートル以上はあった。この通風孔には、横穴が開いており、地下都市の各部分に通じていた。
 デリンクユに関しては、現在までに、地下8層までが確認されてはいるものの、地下12層まであるらしく、未だに未発掘の状態である。通風孔の長さは、実に120メートルを越すものと見られている。デリンクユには、このような井戸が52本もあり、6千人もの人間が住んでいたという。この地下都市には、少なくとも5本以上の非常用のトンネルが穿たれており、その内の一本は、9キロもあり、隣のカイマクル地下都市に通じていたらしい。精密機械のないこの時代に、数十メートルならいざ知らず、いかにして地底を9キロも穿って地下都市同士を連結させることが出来たのかは大きな謎と言うしかない。
---------------------------------[抜粋]
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---------------------------------[抜粋]
 これらの地下都市は、地下都市として考えられる限りの完全な施設を持っていたのである。
 この推定人口1万5千人のカイマクル地下都市についての調査報告書の一部を見てみると、
 「まず、最重要な通気孔(エア・コンディショナー)が、都市の中央部を地下70mにある地下水脈まで垂直に貫いている。そして、その通気孔の上端には、多分見張り台を備え付けたと思われる跡が残っていた。各階層は階段または傾斜した通路で互いに繋がり、通路と部屋との境目の所々には、輪状の石碑(図C)が備え付けられていた。
この輪状の石は内部の石で作られたのではなく、外で作られて竪穴の通気孔からおろされた物であった
 井戸もあった。共同炊事場もいくつかあった。共同炊事場には、汚水処理設備の溝と、煙を通気孔の方に導くベンティレーション(換気装置)とがそなえつけられており、そのかたわらには岩塩を粉砕するためと見られる石盤もおかれていた。
 また、燃料や証明器具の油を貯蔵するためと見られる部屋や、家畜を飼育するための部屋、その飼料を作るサイロなどの跡もあった。寝室や仕事場は言うに及ばない。それどころか、ワインを醸造する部屋や、できあがったワインを貯蔵する壷を備え付ける場所まできちんと設けられていたのである。」(埋もれた秘境カッパドキア 著立田洋司 より)
 各部の役割については、付いていた跡からの想像が大部分であるが、それにしても驚くべき遺構である。
---------------------------------[抜粋]

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さて、このカッパドキアの地下都市がいつ建造されたかについて考えてみたい。ただ、この建造された時代については論争が続いており、未だ結論は出ていない。近年までは、三世紀頃にキリスト教徒(修道院)が避難所として定住したというのが通説であった。奇岩を刳り抜き洞を穿った寺院や修道院が多数発見されていて、それらは千を超える数で、キリスト教徒の一味・修道士が住み着いた形跡は洞窟寺院や礼拝堂の壁画として遺されているからだ。

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奇岩を穿ち洞を築いたとみられる遺構は千を越えるという。


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カッパドキアにある洞窟寺院の壁画


---------------------------------[抜粋]
 この当時、ローマ帝国の皇帝は、キリスト教徒に、ありとあらゆる災いの罪を着せて迫害していた。中でも、ネロは、ローマの大半を焼き尽くした大火をキリスト教徒の仕業だとして、片っ端から信者を殺害した。歴史家タキツスは述べている。「処刑はスポーツのようだった。信者は、獣の皮を被せられ、猛犬にかみ殺された。また、コロッセウムでライオンの餌にされた。十字架に縛られて、生きたまま焼き殺された・・」しかも、ローマを焼き尽くした大火は、ネロが自ら火を放ったものであった。
---------------------------------[抜粋]


時代背景的に合致はする。イスラム=アラブに迫害されていたという説もある。キリスト教徒がカッパドキアに定住したのは確かなことだろう。ただし、遺構はすべて地上部の話だ。地下都市からはキリスト教徒の遺物は見つかっていないという。キリスト由来の遺物は全て地上部から発見されている地下にはキリスト教徒の遺物はおろか、生活の痕跡すらなかったようだ。


---------------------------------[抜粋]
 以前はこの地下都市は、地上にあるAD3世紀頃ローマ帝国の迫害に追われたキリスト教徒達によって作られたと考えられていた。 
[中略]
 地上の洞窟と地下の都市の違いは、地上の物にはキリスト教徒による生活の跡があり、キリスト教徒が書いたとわかる宗教壁画が礼拝堂にあるのに対して、地下都市には生活を思わせる物だけではなく、一つの宗教壁画も残っていなかったと言う点である。
 第一そのころローマの迫害を逃れたキリスト教徒は1万人にも満たなかった、そしてAD200年から続いていたキリスト教徒弾圧はAD313年にミラノ勅令にて終わりを告げる。そこからは特に地下に逃げる必要も無くなったわけである。
 ここには、(元々不毛の荒野で定住した民族はなく)キリスト教徒を助ける者もいなかったし、もし何とか地下都市を作り上げても、そこに住むべき人がいないと言う事になってしまうのである。
 地下都市もキリスト教徒が作ったとするのはある意味暴挙であったが、他に可能性が無いので発見当時はそういわれていた。
---------------------------------[抜粋]

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これらの遺構はカッパドキアの地上部から発掘されている。地下都市にはキリスト教徒の遺構は残されていない。

さらにいえば、3世紀以前よりもずっと前に地下都市が存在していたことは歴史家ヘロドトスやクセノフォンが遺している。紀元前5世紀の話である。それらはキリスト教徒が定住する以前に、地下都市は建造されていた可能性を示している。


---------------------------------[抜粋]
 紀元前5世紀の歴史家クセノフォンが、小アジア遠征記「アノ・バシス」に残した文献によると、11万人が住む東アナトリアの地下都市を訪ねてと言う題目で、紹介しているのでそれ以前から存在していたことは間違いないといわれている。
---------------------------------[抜粋]


キリスト教徒が地下都市建造に着手したのでないならば、一体いつ、誰が建造を始めたというのだろうか。問題は、誰が地下都市の建造を始めたかである。もちろん、キリスト教徒が地下都市の存在に気付き、拡張していった可能性もある。万里の長城だって現存する状態になるまで2000年かかったとされている。紀元前5世紀以前に、何者かが、ある目的をもって、この不毛な荒地に地下都市を建造したのである。やはり、建造が始まった時代が重要である。

そこで浮上したのが鉄の民族ヒッタイト人である。ヒッタイト人は紀元前1800年前にトルコアナトリア地方に現れた民族で、製鉄技術を門外不出として独占していたと言われている。五世紀の間栄華を極めたヒッタイト人は紀元前1200年頃に忽然と姿を消すことになる。一説には「海の族」に滅ぼされたと言われているが、その詳細はベールに包まれたままである。

---------------------------------[抜粋]
 旧約聖書には、「ヘテ」という民族が登場する。古代バビロニア帝国の首都バビロンを滅ぼしたことで知られる民族で、古代エジプトのラメセスを滅ぼしたのもヘテではないか、といわれている。ヘテは、その後五世紀もの間、エジプトやバビロニア一帯を支配し、強大な勢力だったという。
 しかし、「この地底都市を築いた民族こそ、ヘテだったのではないか」とする説がある。ヘテを英語読みにするとヒッタイトになる。ドイツの考古学者フーゴ・ヴィンクラーが『カッパドキア文書』として知られる粘土板を解読したところ、そこには「ヒッタイトの首都はアナトリア平原(つまり、カッパドキア一帯)にあった」と書かれているのを発見している。
 そうしたことから、現在では、「ヘテはヒッタイトではなかったか」とみなす説が考古学の主流になっているのである。

 ヒッタイトといえば、初めて鉄を使いこなした民族として知られている。つまり、たいへんに優れた技術力をもった民族だった。その技術力から推し量れば、地底都市の建造も可能だったのかもしれない。
 現在、地底都市は、そのいくつかが一般に公開されている。入り口はとても狭く、中には人がやっと通れるくらいの竪穴を通って、地下へ降りていくのである。その様子から、この地底都市は危害から逃れるためのシェルターだったのではないか、という説も無視できない。

---------------------------------[抜粋]


ヒッタイトであるならば製鉄技術を持っているのだから鶴嘴(ツルハシ)も加工可能だということなのだが、しかしながら乱暴な気がする。紀元前1800年に、約四千年前に、鶴橋で地下都市造成を思いつくか?という話である。3世紀に定住したキ拡張したとしよう。迫害から解放されたのに、なぜ地下に都市を建造したのだ?13世紀にはアナトリア地方をイルハン国が襲来、統治しているし、トルコはイスラム教国だ。9世紀にはキリスト教徒は姿を消しているという。以降1965年の調査まで、全く気付くこともできなかったのである。こんな可笑しい話はない。9世紀にしたって13世紀にしたって電気も発明されていない時代である。カイクマルとデリンクユの都市間は9キロのトンネルで連結しているが、人一人が頭をかがめてようやく通れる大きさであるからして、一人か二人しか作業はできない。都市間を連結するにしたって、適当に掘ればいいというわけではない。当然精密機械もない。照明もない時代である。どうやったら掘り進めらることができるのだろうか。通風孔を100メートルも穿ち、地下水脈まで貫通させる技術というのは、当時存在したのだろうか。宇宙人が作ったとか、魔法で洞を穿ったとか、そんなことを言っているのではない。100万人が住み暮らせる広大な地下都市が1000年もの間誰一人として気付くことができなかったことがどうしても納得できないのである。

前回のブログエントリーで貼りつけた動画にも出演していたオメル・デミル博士は、

「カッパドキアの地底都市は、紀元前5000年から紀元前2000年の間に初めて築かれたもの。そして、もっとも発展したのは紀元前1500年頃ではないか」

という説を展開している。紀元前5000年前というのもこれまた驚きだ。紀元前5000年といえば、日本は竪穴式住居や貝塚に象徴される縄文時代前期で、古代エジプトでは新石器時代である。先史時代である。電気もガスも水道も燃料も、鉄も銅も製法の技術が確立されていない時代に地下都市を造ろうとはたして思うのだろうか。

さらにオメル博士はカッパドキアの地下都市を建造した時代について紀元前5000年から紀元前2000年の間と幅を持たせているが、紀元前1800年ころに現れたとされているヒッタイト人建造説を言外に否定しているようなにも取れる。製鉄の技術を独占、門外不出にしたヒッタイト人であるならば地下都市の建造は可能に思えたが、でははたして、ヒッタイト人以前に誰が建造したかが重要になる。オメル博士は、紀元前1500年に発展(規模面積の拡大、地下都市ネットワークの拡張)したとヒッタイト人が拡張に関与したことは示しているものの、何かの根拠をもって、それ以前に建造された可能性を仄めかしているのだろう。

地下都市について、最後に一つ触れておきたい。3世紀頃に住み着いたキリスト教徒であるが、地下都市にはキリスト教に由来する遺物は発見されていないことは示してきたが、なんと、人か生活した痕跡が無いのだという。うそーん。

---------------------------------[抜粋]
 しかし、この地下都市からは、今のところこのような基本機構の他は何の遺物も出土していないのである。つまり、生活を思わす物、例えば物を貯蔵する壷・服・収納タンス・食器・ゴミなどだ。他には、埋葬の跡が見られるもののそこを掘ってもなにも出てこない。(最近は少しづつみつかっているらしく先史時代から使われてたのではないかと言う説も出ている)
 どうやらここに住んでいた人達は、皆何らかの理由があって、自らの痕跡を残さないように逃走してしまったのである、いったいなぜそんな事をする必要があったのであろうか。
---------------------------------[抜粋]


カッパドキアの地下都市はピラミッドに匹敵するオーパーツである。にもかかわらずその全容は解明されていない。さらに地下深くにトンネルが穿てられている可能性は否定出来ない。なぜ、解明に後ろ向きなのか。不可解というほかない。


[参照ページ、及び抜粋先]

http://www14.plala.or.jp/mrchild/kpadkia.html

http://members3.jcom.home.ne.jp/dandy2/works/works_14_q.html

世界遺産・消えた文明のミステリー: 王朝・都市・民族の繁栄はなぜ終わったのか
著者: 平川陽一




まとめ
○カッパドキアの地下都市は100万人収容可能な地下都市ネットワークである。
○地下都市として機能しうる完全な機能をそなえている。
○3世紀に定住したキリスト教徒が地下都市を建造したというのが通説であったが、紀元前五世紀に地下都市が存在したという文献が残っている。通説より800年前である。
○キリスト教徒の遺物は洞窟寺院や修道院で見つかっているが、地下都市からはキリスト教徒の遺物は発見されていない。
○今は紀元前1800年頃にトルコ・アナトリアに現れたヒッタイト人が地下都市建造を開始したという説が主流。
○しかし、オメル博士はそれ以前に建造されていたという見方を示している。7000年前の紀元前5000年から紀元前2000前だという。
○9世紀以降、少なくても13世紀以降から1965年に調査を開始するまで1000年もの間、地下都市の存在を誰一人として知らず見つけ出すことができなかった。ただ、地下都市に触れた言い伝えは残されていたという

紀元前50世紀~前20世紀 カッパドキアの地下都市建造開始(オメル博士の説)
紀元前18世紀 トルコ・アナトリア地方にヒッタイト人が現れる。
紀元前12世紀 ヒッタイト人が滅亡。製鉄の技術が世界に広まる。
紀元前5世紀 当時の歴史家が文献でアナトリアの地下都市に触れている。
西暦3世紀 迫害されたキリスト教徒が定住する。
西暦9世紀 洞窟寺院や修道院はこのころに造られたものとされている。
西暦1965年 本格的な調査が始まる。



奇岩地帯の地下に広がるオーパーツ 謎の地下都市、カッパドキア1
http://hatajinan.blog61.fc2.com/blog-entry-218.html


次のブログエントリーではカッパドキアの地下都市を造ろうとした動機にスポットを当ててみたい。目的はズバリ、最後の審判(ハルマゲドン)を見据えたノアの方舟である。何も核戦争に限ったわけではないとみている。311東日本大震災を経験した今、アララト山4000メートルの地点で発見されたノアの方舟の意味を考えてみなければならない。鶴亀の謎がヒントだ。


2011/04/15加筆修正
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奇岩地帯の地下に広がるオーパーツ 謎の地下都市、カッパドキア1

2011/04/02(Sat) 08:40

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